「東北No.1の設計事務所」という旗印は、勝ち負けを競うためのものではなく、働く人々の心を一つにする目印です。性別、年齢、国籍、実績に関係なく、共感と情熱でつながった人々が全国から集まり、育っていく会社が十和田市にあります。「建物のその先」を練り続ける設計事務所を訪ね、静かな挑戦について話を伺いました。
いしかわ・たかひろ
石川 隆大
青森県青森市生まれ、十和田市育ち。青森県立三本木高等学校卒業後に上京し、小説家志望からゲーム業界へ。シナリオライターやディレクターとして活躍したのち、36歳で十和田市にUターン。父・正憲さんが創業した株式会社石川設計(1981年創業)に入社し、2019年に二代目代表取締役社長に就任。
株式会社石川設計 https://www.ishikawasekkei.co.jp/
今日はよろしくお願いします。まずは、石川設計の業務について教えていただけますでしょうか?
一言で言えば、“田舎のよろず屋”です。住宅は大手との競争が激しい分野なので、弊社は官公庁の案件が中心ですね。学校や庁舎、福祉施設など、中〜大規模の建物を設計しています。設計図面や仕様書を作成するほか、現場の進捗や品質を確認し、必要に応じて施工会社に改善をお願いすることもあります。「工事監理業務」と呼ばれる仕事で、品質や工程、コスト、安全面などのチェックも設計会社の重要な役割です。
具体的にはどんなことを意識して設計されているんですか?
使う人の将来までを見据えることです。例えば学校で言えば、少子化の影響で将来空く教室が出てくることや、男女の動線、特別支援学級の配置など。そうした未来を見越して“練る”のが僕たちの仕事だと思っています。クライアントに話を聞き、イメージを図面に落とし込むために細かい部分を確認していく。その作業が設計の中でも大きなウェイトを占めます。
“練る”ことが大切なんですね。
はい。限られた時間の中でも徹底的に練ります。使う人が納得して使えるものを設計したい。建物はある意味“手段”であって、その中で起きる生活や仕事を考えることこそが設計だと考えています。そのためには真摯に話を聞き、その人たちの言葉の奥にある要望まで汲み取りたい。「石川設計に頼めば、ちゃんとやってくれる」と言ってもらえることが、一番嬉しいですね。
丁寧さが信頼につながり、それを社員の技術力が支えているんですね。
はい。創業期からの社員は、父という“暴走機関車”についてきた猛者たちで(笑)。その背中を見て育った若手が今の屋台骨です。やはり現場に根ざした技術と、お客様に寄り添う姿勢が一番の強みだと思います。
石川さんご自身は、十和田出身ですか?
生まれは青森市ですが、2歳のときに十和田に移り、それ以来ずっと地元で育ちました。高校卒業後に上京し、小説家を目指していたんです。
小説家ですか?
そうなんです。文章を読んだり書いたりするのが好きだったので。アルバイトしながら小説を書く生活を3年ほど続けた後、21歳で大学の文学部に入学しました。卒業後も小説を書いたものの、出版までは至らなかったので、現実的に“文章を書く仕事”としてゲーム業界に入り、シナリオライターになりました。他にもキャラクターグッズの企画制作販売やディレクターも経験し、気づけば10年以上ゲームの世界で働いていましたね。
そのまま東京に残る選択肢もあったと思いますが、なぜ地元に戻られたのですか?
やはり父へのコンプレックスが大きかったと思います。父は一代で会社を立ち上げた人で、若い頃は反発もあり、「自分は父とは違う道で成功したい」と思っていました。でも東京である程度仕事を任されるようになっても、どこか自信が持てなかったんです。地元で何もできていないことが心に引っかかっていて。結局、東京に出たときも、戻ると決めたときも、動機の根っこは同じだったんだと思います。地元に戻って、正面からコンプレックスに立ち向かうしかないと思いました。
まず何から始めたんですか?
東京で建築の専門学校に通い、地元に戻る準備を始めました。帰ってから図面を描いてみましたが、すぐにギブアップしました(笑)。社員のレベルが高すぎて、すぐに「これは自分の出番じゃないな」と。営業や企画のポジションに回りました。
設計を諦めたというより、ご自身の強みを活かす決断だったのではないですか?
そう思います。建築そのものは好きで、旅先でも建物ばかり見ているくらいです。ただ、クライアントの思いを図面にする作業なら、自分よりずっと得意な人がすでに会社にいる。それなら建築士たちが最大限、力を発揮できるように支えるのが自分の役目だと考えました。
ご自身が経営に携わられてから、変えていったことはありますか?
特に力を入れたのは採用ですね。2019〜2020年にかけて社員が一気に抜け、体制を立て直す必要がありました。そこで求人サイトに情報を出しても、大手が検索上位に並ぶ中で弊社は全然目立たない。そんなときに結婚相談所の経営者の方と話していて、ふと思ったんです。結婚相手を探すとき、人は自分を磨きますよね。だから“会社の中身”を磨けば、人が来るかもしれない。働く環境を整えようと考えて、まずコーヒーメーカーを導入しました(笑)。
なるほど、そこから始まりましたか(笑)。
はい。身の丈に合った“アップデート”を一つずつ積み重ねていこうと。その後、SNSでつながった人に声をかけたり、大学の先生に会いに行って紹介してもらったり。気になる人がいれば、履歴書が届く前にこちらから連絡を取ることもあります。移住が必要な場合は、制度の申請を一緒に進めたり、住まい探しを手伝ったりもしています。
県外からの就職も増えているとか。
はい。東京、静岡、秋田、宮城など色々なところから来ています。東京で約10年働いていたベトナム出身のソンくん(設計部設計課主任のヴ・ヒュン・ソンさん)も「ここで働きたい」と移住してきてくれましたし。弊社は年齢も国籍も経験も関係なく、才能と情熱があればウェルカムです。まるで“ハーメルンの笛吹き”みたいですが(笑)、僕が各地で会社の考えを話して歩くようになったら、気づけば「共感しました」という人が少しずつ集まるようになりました。
地元の高校生の採用も続けていらっしゃるのでしょうか?
はい、それも大切にしています。人材を育てるということは、この地域を担う人材を育てることでもあると思っていて。どんなに大変でも、そこは手を抜いてはいけないと思っています。会社の平均年齢もかなり若くなりました。今35~36歳くらいでしょうか。
採用で重視していることは何ですか?
華々しい経歴があるかどうかは関係ないですね。むしろ、そうでない人が会社に新しい空気をもたらしてくれることもある。大切なのは「共感できるか」。そこに尽きます。
何か“旗印”がないと、人って集まりづらいんですよ。だから、「東北No.1の設計事務所を獲りに行こうよ」と言っています。東北で一番を取るために戦力が必要なんだと。 僕の父は本当に負けず嫌いで、「車の前に他の車がいるだけで許せない」っていうタイプでした(笑)。僕もやはりそこは受け継いでいて、もちろん本気で「一番になる」と言ってはいますが、「“一番”という旗のもとに人が集まる」ことも大切だと思っています。
「一番」は勝ち負けのための言葉ではなく、目印なんですね。
そう。“一番”というのぼり旗は、実は「ようこそ」のサインなんです。目立つから見つけやすい。その旗があるからこそ、共感してくれる人が来てくれる。誰かが遠くからでもその旗を見て、「あそこに行ってみたいな」って思ってもらえたら、それが一番嬉しいですね。
移住支援もなさっているとのことでしたね。
住まい探しをサポートしたり、移住支援制度の申請を営業スタッフと一緒に進めたりしました。県外からの転入者が1年以上継続して十和田市に住む場合の引越し支援補助金や、東京圏からの移住者が就職した場合に交付される移住支援金などがあり、「自治体ってこんなに頑張ってくれているんだ」と支援に取り組み始めて、初めて気づきましたね。
それに、地方の良さは“打席の多さ”にもあると思うんです。
というと?
東京では、優秀な人が多くて埋もれてしまうこともあるけれど、地方なら人材が限られている分、一人ひとりに役割とチャンスが回ってくる。若くても現場を任されたり、新しいプロジェクトを提案できたり。何度でも打席に立てるから、経験が積めるし、その分だけ成長できる。それが働く側にとっても大きなメリットになると思います。
最後に、これからの展望を教えてください。
2022年に亡くなった父からは「現場に立て。現場を見ていないやつが経営なんかできるか」とよく言われました。父はとにかく現場主義で、机に座って判断することを一番嫌っていた。今自分が経営者として大事にしている“現場を見ること”、“人と向き合うこと”は、気づけば父から学んでいたことばかりです。
地方からでも、世界とつながれる会社をつくりたい。年齢も国籍も関係なく、多様な人が集まる場所にしたいです。そのために、これからも“ちょっと面白い会社”を目指していきたいと思っています。ここでいう“ちょっと面白い会社”というのは、何か派手なことをやるという意味じゃないんです。誰かが旗を見つけて「なんか気になる」「行ってみたい」と思えるような、共感で人が集まる会社。チャンスがあり、打席に立てて、成長できる場所。そんな場所を、地元にちゃんと残していきたいんです。地方に、そういう“ちょっと面白い会社”があるということが、きっと誰かの希望になると思っています。
今回の取材場所
株式会社石川設計